鈴木家の長男明夫さんは、昭和 61 年(1986 年) 3 月に生まれました。

 

 

待望の男子の誕生に母、祐子さんは我が子が可愛くて、明夫さんのことを「石膏で固めておきたい」と思ったそうです。父、英治さんは「長男は鈴木家の跡取り」という考えが強く、小さい頃はいろいろな場所に明夫さんを連れていったとかさん自身も漠然と「自分は店の仕事を継ぐだろうな」と思っていました。

 

 

一方で、いつも店が忙しく家族が一緒に食事をとれなかったこと。地域や理美容業界の役員の仕事で店を空けがちな父。不在になりがちな父の分まで店の仕事を頑張ってきた母の姿を見続けてきたことなど、人の世話はたくさんするのに、家族のことは一切母親任せだった父を見て育った明夫さんには、店の仕事に魅力を見いだすことができませんでした。

 

 

店の仕事をどうしようかな」といろいろ考えた時期がありました。

 

 

やがて高校3年生になり、迷いながら大学と理容の専門学校の両方を受験します。

大学進学は、苦学した父も賛成してくれました。無事合格。

 

進路が決まり、あとは卒業式を待つばかり…という矢先、明夫さんは交通事故に遭います。 「日曜日だったんです。店で忙しく仕事をしていたわけです。明夫には『今日、アルバイトじゃないの。行く時間が過ぎているよ』なんて言って。

 

明夫も慌てて家を出て行ったわけです。それが 70 歳くらいのおじいさんが運転してきた車にぶつかって。車の下に身体が入ったまま 30 メートルぐらいひきずられて、背中からお尻まで削りとられちゃった。

私が店で仕事をしていたら『消防署です。息子さんが事故に遭いました。意識はあります』って電話がかかってきて。

 

ついさっき出て行ったばかりなのにと思って、一瞬何がなんだかわからなかったの。頭が真っ白になって。それでもお客さんをやっていたから冷静さを保っていたんだけど、手がふるえちゃって仕事ができないの」(祐子さん)

 

 

九死に一生を得たものの、背中は擦過傷、両足首骨折で 3 カ月寝たきり生活に。

 

 

一人でトイレに行けないため、おむつでの排泄を経験。

風呂にも入れない明夫さんは、ある日ベッドで寝たきりのまま、母から頭をシャンプーしてもらいます。

なんと気持ちの良いこと!人から髪を洗い流してもらうことの心地よさ!その時に受けた感動は、退院してからも忘れることができませんでした。

 

 

 

 

福祉系の大学に進学したため、明夫さんは福祉関係のサークルやボランティア活動によく関わるようになります。授業の一環で、ある福祉施設に行った時、訪問で入居者の髪を切る人たちを目にしました。「以前から、おやじがやりたいと言っていたのはこれだ!」と父を大学に呼び、大学の先生を交えて訪問理美容について話し合います。

 

 

この明夫さんの行動が、ロダンの訪問理美容事業の立ち上げに大きな力となりました。「交通事故に遭い、寝たきりの生活をした経験がきっかけになり、自分の中の『なにか』を変えたいと思ったんですよ。だから大学では自分でボランティアサークルを立ちあげて、いろいろな活動を始めました。中越地震のボランティアにも1週間行きましたね」(明夫さん)

 

 

明夫さんは理容師の通信教育を受けながら大学卒業後、郡山市にある理容所に住み込みで働きます。

 

 

理容のイロハを現場で学べると期待していたのですが、「見て覚えろ」的な職人気質の修業先は、新人に技術を教えてくれません。仕方なく店の仕事を終えたあと、夜に練習したり、先輩が働いている店に通ったり、年下でも、仕事の上では大先輩に「教えてください」と頭を下げたりしながら、一つ一つ技術を身につけていきました。

 

 

この時の経験が後に「理美容業界の人材育成」の必要性に目を向けるきっかけとなります。

 

 

学生時代に大学の教授と父を交えて家業について話し合ったことも、のちの明夫さんの考えに強い影響を及ぼしました。

平成 21 年(2009 年)京都で開催された第 33 回全国理容連合会・メッセージ全国大会で明夫さんは「理容師になって社会に貢献したい」と発表し、3位の成績を修めます。この時に交流した関西の理容師との縁が、のちに起きた東日本大震災の時の救援物資活動へとつながるのですから、不思議な巡り合わせです。

 

 

 

 

 

 

郡山市で4年修業し、理容師の免許を取得したのち上京。夜間の美容学校に通いながら神楽坂にある美容室に就職し、美容師の技術も学びました。

 

上京後も郡山時代と同様に最新の美容技術を追い、いろいろな店に通い、優れた技術の人に会うとお金を払って教えてもらうなど、たくさんの練習を積み重ね、努力しました。そして勤務先の美容室ではオーナーからマーケティングなどの経営ノウハウを学びました。「東京の方が刺激的でおもしろい」と、いわき以外の土地で自分の店を持つことを考えながら仕事をしていた。そこにまさかの父の病。いわきに戻り、実家を継ぐのか。それとも都内で働き続けるのか。明夫さんは悩みました。

 

 

「父親と家業の話をするたびに喧嘩になっていましたね」(明夫さん)

 

 

 

 

 

平成 26 年(2014年) にロダン店舗を改装する際、明夫さんはバリアフリーのフロアにしたり、身体が不自由な人のための設備を取り入れたりして、店に来るお客さんが使いやすいような提案をしました。

 

 

 

 

 

しかし、それは明夫さん以外の人が、店を経営するという前提での提案でした。「違うだろ。お前が店を継ぐんだろう」息子に店を早く継いでもらいたい英治さんは、そのたびに息子を説得します。そもそも店を改装した理由も「明夫さんに早く戻ってきてほしかった」からでした。 祐子さん自身は、店舗改装に乗り気ではありませんでした。

 

今まで夫婦で頑張ってきた。それこそ寝る間も惜しんで働いた。また頑張れば、頑張っただけお客さんが来てくれた時代だった。

 

でもこれからは違う。

少子高齢化と価格競争の中で先行きが不透明なこともわかっていた。ならば東京で頑張っている息子に、無理にいわきに戻ってもらうより、今まで店に来てくれた常連客さんの髪をやりながら、のんびり商売を続けるのもいいかなぁと思っていたからです。もちろんそれだけではありません。東京に出て、勉強しながら頑張っている明夫さん。息子には、息子なりの夢が、人生がある。「息子の思う道を進んでほしい」という母の気持ちがありました。

 

 

だから夫には言えなかったけれど従業員には「明夫は店に帰ってこなくてもいい」と言っていたのです。交通事故がきっかけで、明夫さんが「理美容師になる」と決めた時にも、祐子さんは明夫さんに言っていました。「お母さんは無理矢理おまえに『店をやれ』とは言ってないよ。だから『俺はやりたくなかったのに』ということだけは言わないでね」と。

 

 

店の運営をめぐり、親子の間で価値感の違いによる喧嘩が絶えませんでした。たとえば店の案内チラシを作るとすると、英治さんは「メニューの種類と価格がわかるチラシを、できるだけ費用をかけずに作りたい」と言います。一方「多少費用がかかっても、クオリティーの高い内容でロダンの経営方針やお客さまに対する姿勢を伝えたい」と思う息子。世代の差、時代の違いと言ってしまえば簡単ですが、経営に関する考え方の違いは大きかったと明夫さんは言います。

 

 

「この人と一緒に店を経営するなんて、 絶対できないから(いわきには)戻らない」(明夫さん)

 

 

平成 28 年(2016 年)は明夫さんにとって、父と話し合うたびに喧嘩で終わり「絶対帰らないから」と父に宣言した年でした。その様子を美容師としてロダンを手伝っていた姉、橋詰光子さんは語ります。「弟の『現代』と父の『昔』。根本的なものは一緒なのかもしれないけれど、どちらの思いも私はわかっていたから、二人の考えを融合させていったら、絶対良いものになるんだけどなあと思っていました」と。

 

 

店の経営を巡って父と弟、両方から話を聞いていた光子さんは「明夫は本当に、こっちに戻ってくるつもりかな。いつ戻ってくるんだろう」と父から聞かれ「私に聞いてもわからない。明夫に聞いてよ」と答えると「俺の電話には出ないんだよ」とこぼされたこともあったとか。光子さん自身は理美容室を経営し、店でお客さんと接する両親を見ていて、小さい頃から親のことを「すごいな」と思いながら育ちました。ですから父と弟の仲が修復できず、もしも明夫さんがいわきに戻らなかったら「自分が継がなければいけないのかな」と思っていました。ただ「店の経営までできるかな」と不安でした。

 

 

一度は「いわきには戻らない」と啖呵を切った明夫さん。

 

 

父、英治さんが倒れた知らせを聞き、心が揺れ動きます。「本当は東京で理美容師の仕事を続けたい。いつかは店を持ちたいけれど、それはロダンではない」と、今までは自分のことだけしか考えていませんでした。

 

 

しかし「待てよ」と。

 

 

ロダンで働いてくれている従業員さんの生活はどうするんだ」次に明夫さんがとった行動は病床の父親に自分の考えを告げることでした。

 

 

お父さんの意識があるうちに、言っておきたいことがある。これから先、お父さんに何かあったら、お父さんだけではなくて、みんなの人生がかかっているから」と。

 

 

 

 

第2回目 完

 

 

 

 

 

次回  第3回目【10月10日更新予定】

『親の仕事を継ぐということ。二代目が思うこと』