お知らせ

ロダンからの最新情報をお届けします。
  • 湧き出るパワー!!

     

    10月はいろんな意味で心が落ち着かない週末でした。。。

    今日から11月。

    急にぐっと冷えましたが体調等はいかがでしょうか?

     

     

    「こんにちはーお疲れ様です。」
    自分たちも大変なのに、栄養ドリンク片手にわざわざ顔出しに脚を運んでくれた「どりーむず」笠間代表。

     

    なんて、人なんだろう。。。
    でも前向きな姿に勇気を頂きました。

    また、水害片付け合間にカット来店下さった常連の御客様。

    片付け隊に行かせて頂いた当初よりも少し痩せた気がしました。

    父の友人でもあります。

    浸水してから一夜明けるまでの事、ボランティアに来てくれた方々のこと、色んな感情が沸き上がったのでしょう。。男泣きをしながら話す姿。
    ハサミを持つ母の手も幾度も止まりながら。。。

    ご夫婦で生活再建を誓う後ろ姿は何とも言えない気持ちが込み上げました。

    そんな最中、嬉しい連絡をくれたお客様も。

    「無事に産まれました」
    新しい命が誕生していました。

    産前、お子様の訪問カットからの自然な流れで産後家事代行等のご利用へ。

    第三子の誕生は色んな意味で忘れられない記念日となったことだと思います。

     

     

    上のお子さんがかえってくる前に少しでもゆっくりして頂きたい。。。

    寝不足が続くと産後は心のバランスも時に崩れたりしますよね。

    「よかった〰️パパの負担も軽減されたぁ〰️」

    そう気遣う奥さん。
    気軽に頼れる場所、大事です☺️

    こんなに小さかったんだなぁ。。。
    赤ちゃんの温もりはあの頃の自分、我が子と重ね合わせながら大切な気持ちを思い出させてくれました。

    床上げまでもうしばらく。

    絶対ゆっくりもしていられないですが、短期集中で休んでくださいね。

    ほっこりする時間をありがとうございました。

    令和元年のこの時を選んで産まれてくれた大切な命。

    改めて、おめでとう。

  • 第3回目 『親の仕事を継ぐということ。二代目が思うこと』

     

     

    「父親に万が一のことがあった場合でも、従業員さんにきちんと給料を支払えるように、自分が会社の代表になる!」

     

     

    病で倒れた父親に代わり、明夫さんは自分が会社の代表になる手続きをしました。

     

     

     

    戻ってくるしかないんだな」一気に考えを変えた明夫さんの決意の裏には、 理美容室ロダンの危機がありました。

     

     

    運営している店舗の一つ、共立理容室の1年後の閉店が決定していたからです。家族だけではなく、従業員の生活を守るために家業を継ぐことを決めた明夫さんでしたが、突然のことだったため、継いだあとの1年間は苦労の連続でした。 「たとえば日々の売り上げ。会社の経理事情については『店の帳簿を見せて』と何年か前から母親に言っていました。でも、はっきり教えてくれなかった。これは痛かったですね」と明夫さん。

     

     

    「(明夫さんが働いている)東京と、いわきの田舎では商売のやり方が違う。当然客単価も違う。東京で一人頑張っている息子に、店の経理事情を見せることにためらいがあった」と祐子さんは話します。「だって、数字を見せたら、明夫ががっかりして、絶対いわきに帰ってきたくないと思うでしょう」と。

     

    親として、経営者としての母親の気持ちもわからないではない。しかし店の経営が黒字でも赤字でも、現状を知ることでこれからの経営を考えられる。そのことが大切なのだと明夫さんは強調します。「何もわからない状態で事業継承された瞬間、継いだ立場の人間は、ものすごい大変な思いをするわけです」と。

     

     

    親たちが築いてきた人間関係の継承も大切です。

     

     

     

     

     

     

     

     

    父、英治さんは地域活動や理容業界を通して、多くの人とおつきあいをしてきました。仕事をする上で大切なのは人とのつながりです。ここを継承できずにつながりが途切れるのは、あまりにももったいないと明夫さんは考えます。

     

    そしてもう一つ。事業継承にあたって、一番大切かもしれないと思っていることを明夫さんは語ります。

     

     

    事業を継承する者は、事業に対する創業者の思いをきちんと受けとめること。

     

     

    つまり「なぜこの事業を始めたのか」「どういう思いで継続させていったのか」ということです。ただ伝えるだけではなく、事業の変遷を文章にして残しておくと、継ぐ人は助かると明夫さんは言います。鈴木家の場合、英治さんが亡くなる少し前にロダンストーリーを書き残してくれました。それは明夫さんの大切な宝物になっているそうです。 時代の変化と共に、変わっていくことはたくさんあります。創業者が築いてきた理念や行動の中から「自分が継承したい」部分をちゃんと持つことが承継者にとって大切なこと。

     

     

    継がせる側と継ぐ側が冷静に話し合いを持てればいいけれど

     

     

    「難しいときには、第三者が間に入り、両方のクッション役を担ってほしい」と明夫さんは実感を込めて語ります。

     

     

    「親は子どもに商売のすべてを語らないわけですよ。自分の苦労話はするかもしれないけれど、大事なものを全部伝えていないところはあるかもしれない。仕事って奥が深くて、とてもひと言では語りつくせないものですよ」と祐子さん。

     

     

    「だからこそ、創業者の話をまとめてもらう人が必要だと思います」と明夫さん。

     

     

    父のあとを継ぎ「有限会社クリエイティブ・ロダン」代表取締役社長になった鈴木明夫さんが、まず取りかかったのは 12 年目に入った訪問理美容のてこ入れでした。

     

    姉、光子さんと共に、いわき市内外の介護福祉施設約 200 カ所を手当たり次第訪問。必死の営業活動を繰り広げました。なかなか手応えを感じられずにいましたが、それでも徐々に利用者が増えていきました。 営業活動と並行して取り組んだのが「移動式店舗を手に入れたい」という父の遺志を受け継ぐことです

     

    明夫さんはインターネット上で売り出されていた移動店舗用の2トントラックを見つけ、売り主に会いに行きます。偶然にもトラックのオーナーが東日本大震災の時、ボランティアでいわき市を訪問したことがわかり、これもご縁に違いないと購入を決意。また車両の内装・外装の費用をまかなうためにクラウドファンディングで資金を募りました。髪を切りたくても様々な事情により店舗まで行けない。「本当に困っている人たちの元へ、理美容室に行くのと変わらないサービスを提供したい」という明夫さんの呼びかけに多くの人が共感し、目標の出資額を達成。

     

    平成 30 年(2018 年) 12 月より移動式店舗「どこでもロダン」としてサービスを開始しました。

     

     

     

    一方、姉、光子さんは、出産後なかなか美容室に行けないママのための訪問理美容サービスを始めます。「産前産後ママヘルパー」の資格も取得。髪を切るだけではなくけではなく、自らの育児経験を織りまぜながら、ママたちの育児サポートにも携わるようになりました。

     

     

    移動式店舗は父、英治さんの夢でした。父の夢を形にした明夫さんには、明夫さん自身の夢もあります。

     

     

    人材育成のためのアカデミーサロンの設立です。技術はあるのに働く場がなくなったシニア理美容師を、指導員として再雇用し、実践力のある理美容師を早く育てる仕組み作りです。この構想は修業時代、「見て覚えろ」式の教え方に慣れず、技術がなかなか身につかなかった明夫さんの苦い経験から生まれました。「後進を育てなければ業界の未来はない」と明夫さんは考えます。

     

     

     

     

     

     

    理美容を通して社会に貢献したい」(有)クリエイティブ・ロダン創業者、鈴木英治さんの精神は、このように形を変えて次世代に受け継がれています。

     

     

    祐子さんは言います。「まさか夫が、こんなに早く他界するとは夢にも思いませんでした。でもね。子が親から『(店を)  受け継ぐ』という決意、そして『(店を)   継がなければならない』という宿命?それが人間としての成長であり、生きていく喜びを得る場と捉えて、進むしかないのかなと思うんです。

     

     

     

    商売は『笑売

     

     

     

    笑顔は副作用のない良薬でしょう。だから笑顔が一番!息子たちがロダンを継いでくれたことに改めて感謝です」と笑顔で語る祐子さんでした。

     

     

     

     

     

  • 第2回目 『長男:明夫さんの思い 。 突然の父の病。その最中で決めた明夫さんの覚悟とは?』

     

     

    鈴木家の長男明夫さんは、昭和 61 年(1986 年) 3 月に生まれました。

     

     

    待望の男子の誕生に母、祐子さんは我が子が可愛くて、明夫さんのことを「石膏で固めておきたい」と思ったそうです。父、英治さんは「長男は鈴木家の跡取り」という考えが強く、小さい頃はいろいろな場所に明夫さんを連れていったとかさん自身も漠然と「自分は店の仕事を継ぐだろうな」と思っていました。

     

     

    一方で、いつも店が忙しく家族が一緒に食事をとれなかったこと。地域や理美容業界の役員の仕事で店を空けがちな父。不在になりがちな父の分まで店の仕事を頑張ってきた母の姿を見続けてきたことなど、人の世話はたくさんするのに、家族のことは一切母親任せだった父を見て育った明夫さんには、店の仕事に魅力を見いだすことができませんでした。

     

     

    店の仕事をどうしようかな」といろいろ考えた時期がありました。

     

     

    やがて高校3年生になり、迷いながら大学と理容の専門学校の両方を受験します。

    大学進学は、苦学した父も賛成してくれました。無事合格。

     

    進路が決まり、あとは卒業式を待つばかり…という矢先、明夫さんは交通事故に遭います。 「日曜日だったんです。店で忙しく仕事をしていたわけです。明夫には『今日、アルバイトじゃないの。行く時間が過ぎているよ』なんて言って。

     

    明夫も慌てて家を出て行ったわけです。それが 70 歳くらいのおじいさんが運転してきた車にぶつかって。車の下に身体が入ったまま 30 メートルぐらいひきずられて、背中からお尻まで削りとられちゃった。

    私が店で仕事をしていたら『消防署です。息子さんが事故に遭いました。意識はあります』って電話がかかってきて。

     

    ついさっき出て行ったばかりなのにと思って、一瞬何がなんだかわからなかったの。頭が真っ白になって。それでもお客さんをやっていたから冷静さを保っていたんだけど、手がふるえちゃって仕事ができないの」(祐子さん)

     

     

    九死に一生を得たものの、背中は擦過傷、両足首骨折で 3 カ月寝たきり生活に。

     

     

    一人でトイレに行けないため、おむつでの排泄を経験。

    風呂にも入れない明夫さんは、ある日ベッドで寝たきりのまま、母から頭をシャンプーしてもらいます。

    なんと気持ちの良いこと!人から髪を洗い流してもらうことの心地よさ!その時に受けた感動は、退院してからも忘れることができませんでした。

     

     

     

     

    福祉系の大学に進学したため、明夫さんは福祉関係のサークルやボランティア活動によく関わるようになります。授業の一環で、ある福祉施設に行った時、訪問で入居者の髪を切る人たちを目にしました。「以前から、おやじがやりたいと言っていたのはこれだ!」と父を大学に呼び、大学の先生を交えて訪問理美容について話し合います。

     

     

    この明夫さんの行動が、ロダンの訪問理美容事業の立ち上げに大きな力となりました。「交通事故に遭い、寝たきりの生活をした経験がきっかけになり、自分の中の『なにか』を変えたいと思ったんですよ。だから大学では自分でボランティアサークルを立ちあげて、いろいろな活動を始めました。中越地震のボランティアにも1週間行きましたね」(明夫さん)

     

     

    明夫さんは理容師の通信教育を受けながら大学卒業後、郡山市にある理容所に住み込みで働きます。

     

     

    理容のイロハを現場で学べると期待していたのですが、「見て覚えろ」的な職人気質の修業先は、新人に技術を教えてくれません。仕方なく店の仕事を終えたあと、夜に練習したり、先輩が働いている店に通ったり、年下でも、仕事の上では大先輩に「教えてください」と頭を下げたりしながら、一つ一つ技術を身につけていきました。

     

     

    この時の経験が後に「理美容業界の人材育成」の必要性に目を向けるきっかけとなります。

     

     

    学生時代に大学の教授と父を交えて家業について話し合ったことも、のちの明夫さんの考えに強い影響を及ぼしました。

    平成 21 年(2009 年)京都で開催された第 33 回全国理容連合会・メッセージ全国大会で明夫さんは「理容師になって社会に貢献したい」と発表し、3位の成績を修めます。この時に交流した関西の理容師との縁が、のちに起きた東日本大震災の時の救援物資活動へとつながるのですから、不思議な巡り合わせです。

     

     

     

     

     

     

    郡山市で4年修業し、理容師の免許を取得したのち上京。夜間の美容学校に通いながら神楽坂にある美容室に就職し、美容師の技術も学びました。

     

    上京後も郡山時代と同様に最新の美容技術を追い、いろいろな店に通い、優れた技術の人に会うとお金を払って教えてもらうなど、たくさんの練習を積み重ね、努力しました。そして勤務先の美容室ではオーナーからマーケティングなどの経営ノウハウを学びました。「東京の方が刺激的でおもしろい」と、いわき以外の土地で自分の店を持つことを考えながら仕事をしていた。そこにまさかの父の病。いわきに戻り、実家を継ぐのか。それとも都内で働き続けるのか。明夫さんは悩みました。

     

     

    「父親と家業の話をするたびに喧嘩になっていましたね」(明夫さん)

     

     

     

     

     

    平成 26 年(2014年) にロダン店舗を改装する際、明夫さんはバリアフリーのフロアにしたり、身体が不自由な人のための設備を取り入れたりして、店に来るお客さんが使いやすいような提案をしました。

     

     

     

     

     

    しかし、それは明夫さん以外の人が、店を経営するという前提での提案でした。「違うだろ。お前が店を継ぐんだろう」息子に店を早く継いでもらいたい英治さんは、そのたびに息子を説得します。そもそも店を改装した理由も「明夫さんに早く戻ってきてほしかった」からでした。 祐子さん自身は、店舗改装に乗り気ではありませんでした。

     

    今まで夫婦で頑張ってきた。それこそ寝る間も惜しんで働いた。また頑張れば、頑張っただけお客さんが来てくれた時代だった。

     

    でもこれからは違う。

    少子高齢化と価格競争の中で先行きが不透明なこともわかっていた。ならば東京で頑張っている息子に、無理にいわきに戻ってもらうより、今まで店に来てくれた常連客さんの髪をやりながら、のんびり商売を続けるのもいいかなぁと思っていたからです。もちろんそれだけではありません。東京に出て、勉強しながら頑張っている明夫さん。息子には、息子なりの夢が、人生がある。「息子の思う道を進んでほしい」という母の気持ちがありました。

     

     

    だから夫には言えなかったけれど従業員には「明夫は店に帰ってこなくてもいい」と言っていたのです。交通事故がきっかけで、明夫さんが「理美容師になる」と決めた時にも、祐子さんは明夫さんに言っていました。「お母さんは無理矢理おまえに『店をやれ』とは言ってないよ。だから『俺はやりたくなかったのに』ということだけは言わないでね」と。

     

     

    店の運営をめぐり、親子の間で価値感の違いによる喧嘩が絶えませんでした。たとえば店の案内チラシを作るとすると、英治さんは「メニューの種類と価格がわかるチラシを、できるだけ費用をかけずに作りたい」と言います。一方「多少費用がかかっても、クオリティーの高い内容でロダンの経営方針やお客さまに対する姿勢を伝えたい」と思う息子。世代の差、時代の違いと言ってしまえば簡単ですが、経営に関する考え方の違いは大きかったと明夫さんは言います。

     

     

    「この人と一緒に店を経営するなんて、 絶対できないから(いわきには)戻らない」(明夫さん)

     

     

    平成 28 年(2016 年)は明夫さんにとって、父と話し合うたびに喧嘩で終わり「絶対帰らないから」と父に宣言した年でした。その様子を美容師としてロダンを手伝っていた姉、橋詰光子さんは語ります。「弟の『現代』と父の『昔』。根本的なものは一緒なのかもしれないけれど、どちらの思いも私はわかっていたから、二人の考えを融合させていったら、絶対良いものになるんだけどなあと思っていました」と。

     

     

    店の経営を巡って父と弟、両方から話を聞いていた光子さんは「明夫は本当に、こっちに戻ってくるつもりかな。いつ戻ってくるんだろう」と父から聞かれ「私に聞いてもわからない。明夫に聞いてよ」と答えると「俺の電話には出ないんだよ」とこぼされたこともあったとか。光子さん自身は理美容室を経営し、店でお客さんと接する両親を見ていて、小さい頃から親のことを「すごいな」と思いながら育ちました。ですから父と弟の仲が修復できず、もしも明夫さんがいわきに戻らなかったら「自分が継がなければいけないのかな」と思っていました。ただ「店の経営までできるかな」と不安でした。

     

     

    一度は「いわきには戻らない」と啖呵を切った明夫さん。

     

     

    父、英治さんが倒れた知らせを聞き、心が揺れ動きます。「本当は東京で理美容師の仕事を続けたい。いつかは店を持ちたいけれど、それはロダンではない」と、今までは自分のことだけしか考えていませんでした。

     

     

    しかし「待てよ」と。

     

     

    ロダンで働いてくれている従業員さんの生活はどうするんだ」次に明夫さんがとった行動は病床の父親に自分の考えを告げることでした。

     

     

    お父さんの意識があるうちに、言っておきたいことがある。これから先、お父さんに何かあったら、お父さんだけではなくて、みんなの人生がかかっているから」と。

     

     

     

     

    第2回目 完

     

     

     

     

     

    次回  第3回目【10月10日更新予定】

    『親の仕事を継ぐということ。二代目が思うこと』

     

  • ◎お客様へのお知らせ◎

     

    いつも、ヘアークリエイティブ・ロダンをご利用頂き誠にありがとうございます。

     

    当店では、コスト削減に努めてまいりましたが、消費税10%への増税に伴う材料費の高騰

     

    人で不足による人件費の高騰などにより。現在のサービスを維持していく事が難しい状況となってまいりました。

     

    つきましては、令和元年10月1日より、価格の変更をさせて頂きます。

     

    今後も企業努力を行い。より一層のサービスの向上に努めてまいりますので、ご理解賜りますよう

     

    お願い申し上げます。

     

    Hair Crative Rodan 

     

     

     

     

  • 1回目 『鈴木英治さん創業者の記録』 ~髪と未来を繋ぐ 親子2代の物語~

     

    ヘアー・クリエイティブ・ロダンの創業者、鈴木英 ひで 治 はる さんは昭和 27 年(1952年)2月1日に姉 2 人、英治さん、妹2人、弟1人の6人兄弟の長男として誕生しました。

     

    炭鉱事故により視力を失った父親と、多くの兄弟の生活を支えるために、英治さんは義務教育を終えると専門学校に通い理容師の資格を取得。先に開業していた姉の理髪店を手伝う形で床屋になりました。

    その後 19 歳でロダン理所を開設。椅子2台、わずか6坪の店舗でしたが志は高く、将来はコミュニティスペース、サウナ、マッサージも受けられる、サービス業の地域一番店を目指し、夢ふくらませての開業でした。店では1日に 12 ~ 15 人のお客さんの髪をカットし両親と家族6人の生活を賄っていました。

     

    店の営業の傍ら英治さんは、姉が勤務するいわき市立総合磐城共立病院に通い、出張理容や頭部手術の際の剃毛もやっていました。

    その様子を文章にまとめ「理容を通して社会に貢献していきたい」と、病院内に理容室を開業する嘆願書を提出。地元の理容組合の推薦をもらい「共立理容室」として開業しました。昭和 50年(1975 年)6月、英治さん 23 歳の時です。

     

     

     

     

     

    社会に貢献したい」という英治さんの思いは、母の家系が短命だったことや、事故により視力を失いながらも世話好きだった父の影響でした。…とはいえ開業資金の返済のため理容室の仕事を終えたあと、冬場は朝方まで石焼き芋売りをしたり、夏場はスイカ売りをしたりして働きました。借金の返済を1日でも早く終わらせようと、 12 月 31 日はお客さまが途切れるまで仕事をし、大掃除を済ませたあとに、焼き芋や甘酒売りを徹夜で売ることも数年間続けました。ほんとうに疲れて疲れて、時に赤い尿がでるほどでした。

     

     

     

     

    英治さんの妻、祐子さんは昭和27 年(1952 年) 11 月 27 日に南相馬市で生まれました。画家だった父の影響で物を作るのが好きだったので、母親の勧めで理容師の専門学校に通い、卒業後はいわき市平にある理髪店に住み込みで修業します。その後姉が看護師として働いていた、いわき市立総合磐城共立病院内の共立理容室に勤めます。そこで英治さんと出会い結婚。時に新婦 26 歳、新郎 27 歳でした。

     

    義務教育を終えるとすぐに理容師の資格を取り、家族のために働き始めた英治さん。学ぶことに対する気持ちは強く、理容所の仕事を妻、祐子さんに支えてもらいながら定時制の高等学校に通い、卒業後は短期大学に進学。

     

    昭和 59 年(1984 年)、 32 歳でいわき短期大学経済学部商経学科を卒業しました。

     

    この年にロダン理容所を「理容美容ヘアーショップ・ロダン」に変更。

    お父さんやお母さん、子どもたち。家族みんなが一緒に店に関われる、地域のコミュニティーサロンの役割も果たせるような理美容の垣根を越えた店、お客さまに喜んでいただける店を目指した名称変更でした。

     

    理容椅子2台。資金がなく中古でしたが、友人たちの協力を得ながら店の内装や外装を改装。なにもかも手作りの開業でした。開設当初の来店客は1日に2~3人。店に面した道路の工事が2年も続き、お客さまが入店しづらかったこともあり、売り上げは伸び悩みます。

     

     

    その時に英治さんが心に決めたこと。それは尊敬する人から言われた「来店される一人のお客さまを大切にすること。そのお客さまが 24 人のお客さまにつながっていくのだから」という言葉でした。師と仰ぐ人の言葉をヒントに、手作りのダイレクトメールを毎月送り、英治さんは徐々に店の売り上げを伸ばしていったのです。

     

     

    仕事と学業との両立で働きずくめの毎日を送る英治さん。疲労がたまり、入院したこともありました。それでも勉強を続け、平成 2 年(1990 年)には全国理容中央学園大学科を卒業。

     

    将来のために店を法人化し、有限会社クリエイティブ・スズエーを設立。多忙な毎日を過ごしながらも、常に半歩先を見て店の経営を考えていた英治さんは「これからは床屋だけじゃだめなんだ。美容のほうも勉強しないと」と妻を説得。双子の女の子を育てながら店を切り盛りする祐子さんに美容師の資格を取ることを勧めます。

     

    「子育てをしながら仕事と学校。こりゃ大変だ!」それでも頑張って美容師の免許を取得する祐子さん。

    「(大変だなと心で反発しても)私も真面目だから、お願いされると頑張っちゃうんですよね。

     

    英治さんの『祐ちゃん、大丈夫だよ』の魔法の言葉にだまされるわけです。あははは」と笑いながら当時を思い出す祐子さん。

     

    「父は、まあ経営者ですね。『こう決めたら、こうやろう』と、まず行動するタイプでした」と明夫さん。

     

     

    創意工夫の人でもあった英治さんはマッサージスタッフを雇いマッサージルームを併設したり、文房具店を始めたりしたこともありました。

    10 代で「理美容を通して社会に貢献していきたい」と志を立て開業した英治さんは有言実行の人でもありました。 25 歳で福島県理容生活衛生同業組合のいわき支部地区班長になり、 30 歳で支部青年部長を、その後いわき方部会方部長、平成18 年(2006 年)には同組合の県副理事となり理容業に貢献します。

     

     

    「夫は頼まれると『ノー』と言えないんです。常に組合や地域の役職、いろんな役職をてんこ盛りにやっているから、もう自分ではアップアップですよね」(祐子さん)

     

    「父は常にいろんな役職ごとを引き受ける『ミスターイエスマン』。人のために何かしらやっているから、お店は全部お母さん任せになるわけですよ」(明夫さん)

     

     

    平成7年(1995 年)、店を鉄骨2階建て 15 坪に改築。彫刻家ロダンの名前にあわせて「貴方の髪を創造する」のロゴを入れた名刺を作成し、ヘアーショップ・ロダンは、社会状況や多様化するニーズに対処できるよう、スタッフ教育に力を入れます。

     

     

     

     

    たとえば朝の「一人ひとこと会議」や月1回の営業会議を実施したり、毎月お客さまに送るダイレクトメールの内容も、スタッフに交代で内容を考えさせたりしました。当時の来客数は平日 17 人前後、土日は 25 ~ 35 人くらいあり、とにかく毎日がとても忙しく、昼食が 14 時~ 15 時に、夕食が 21 時~ 22 時くらいになることもたびたびでした。

     

    駆け出しの頃、食べることにも苦労した英治さんは、従業員への心配りも忘れません。「みんな頑張っているんだから、ご飯出してやれ」が口癖でした。英治さんの気持ちを受け、祐子さんは店の仕事の合間に従業員の食事の支度もしたのでした。「店のことが忙しくて、子ども達の世話などはあまりできなかったわね。その代わり、心優しいお姑さん、ソメノさんが全面的に協力してくれて、本当に感謝の日々でした」と祐子さんは当時を振り返ります。

     

    しかし忙しかったのはロダンだけではありません。まわりのお店もみな同じでした。

     

     

    「週末になると、開店前には店の外にお客さまが並んでいたものよ」と祐子さんは言います。英治さんは平成 10 年(1998 年)に、いわき理容美容専門学校の理事に就任。翌々年に、同学校の副理事に就任します。時に世の中はカリスマ美容師ブーム。美容業界にスポットがあたった時代でした。 10 分 1000 円でカットのみ。シャンプー、ブロー、カラーリング、シェービングは一切やらないQBハウス1号店が、東京都神田にオープンしたのは平成8年(1996 年)のこと。QBハウスに台頭されるような、理美容業界への激安店の広がりは、バブル崩壊と共に、いわき市の理美容店にも影響を及ぼします。

     

     

    危機感を抱いた英治さんは、平成 12 年(2000 年)の介護保険法施行に伴い、高齢化社会に向かい始める社会状況に合わせ、地域の理美容店仲間にも声をかけ訪問理容を取り入れます。ロダンスタッフ全員に2級ヘルパーの資格を取らせたのも、時代を見据えたからのこと。

     

     

    平成 18 年(2006 年)、有限会社クリエイティブ・ロダンに社名を変更。定款に福祉サービス、保健医療サービス事業を入れます。福祉学部に進学した長男、明夫さんと訪問理美容について話し合ったのもこの頃でした。

     

    やがて明夫さんが社会人となり、理容・美容の勉強を本格的に開始した同時期の平成 23 年(2011 年) 3 月 11 日に東日本大震災発災。いわき市は震度6弱を観測します。続く福島第一原子力発電所、第二原子力発電所の発災により、いわき市内に避難された方たちに向けて無料シャンプーを行いました。

     

     

     

     

     

    当時、福島県理容組合の副理事だった英治さんが理美容学校などに声をかけ、社会福祉協議会などとも連携し、協力してくれる理容師や美容師と一緒になり、ロダン店舗や協力店、学校などの場所を借りたのです。いわき市に本社があるバス会社の協力により、ピストン輸送をしてもらったおかげで、状況を把握しながら避難所を回ることができました。シャンプーに必要な水も、水道局やガス会社の協力があったからこそできたことでした。そして同じ震災を経験した、関西の理容師組合の仲間から届いた励ましの手紙とたくさんの支援物資。これらを浜通りの同業者に配ることもやりました。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    障がい者の父親、それを支える母親、たくさんの兄弟の長男としての責任感から進んだ理容師の道は厳しく険しい道でした。

     

    しかし寝る間も惜しんで働き、結婚後は妻の協力のもと、地域のために力をつくし、理美容業界のリーダーとなり、さまざまな分野で活動する人たちと協力しあいながらボランティア活動ができるまでになりました。

    さらに英治さんは 10 年先まで事業計画を立てていました。その 1 つが「理美容ができる移動車両」を手に入れて、もっと多くの人たちに理美容サービスを提供することでした。

     

    夢を叶えることなく英治さんは平成 29 年(2017 年)に、この世を去ります。行年 65 歳。葬儀には 1000 人以上の人が焼香に訪れ、交通整理のために警察官が出るほどでした。眠る英治さんと対面し男泣きをする人も。その姿にご家族は、改めて英治さんの生き方を見たような思いだったそうです。

     

     

     

    第1回目 完

     

     

     

    次回  第2回目 【10月3日更新予定】

    『 長男:明夫さんの思い 。 突然の父の病。その最中で決めた明夫さんの覚悟とは?』