ヘアー・クリエイティブ・ロダンの創業者、鈴木英 ひで 治 はる さんは昭和 27 年(1952年)2月1日に姉 2 人、英治さん、妹2人、弟1人の6人兄弟の長男として誕生しました。

 

炭鉱事故により視力を失った父親と、多くの兄弟の生活を支えるために、英治さんは義務教育を終えると専門学校に通い理容師の資格を取得。先に開業していた姉の理髪店を手伝う形で床屋になりました。

その後 19 歳でロダン理所を開設。椅子2台、わずか6坪の店舗でしたが志は高く、将来はコミュニティスペース、サウナ、マッサージも受けられる、サービス業の地域一番店を目指し、夢ふくらませての開業でした。店では1日に 12 ~ 15 人のお客さんの髪をカットし両親と家族6人の生活を賄っていました。

 

店の営業の傍ら英治さんは、姉が勤務するいわき市立総合磐城共立病院に通い、出張理容や頭部手術の際の剃毛もやっていました。

その様子を文章にまとめ「理容を通して社会に貢献していきたい」と、病院内に理容室を開業する嘆願書を提出。地元の理容組合の推薦をもらい「共立理容室」として開業しました。昭和 50年(1975 年)6月、英治さん 23 歳の時です。

 

 

 

 

 

社会に貢献したい」という英治さんの思いは、母の家系が短命だったことや、事故により視力を失いながらも世話好きだった父の影響でした。…とはいえ開業資金の返済のため理容室の仕事を終えたあと、冬場は朝方まで石焼き芋売りをしたり、夏場はスイカ売りをしたりして働きました。借金の返済を1日でも早く終わらせようと、 12 月 31 日はお客さまが途切れるまで仕事をし、大掃除を済ませたあとに、焼き芋や甘酒売りを徹夜で売ることも数年間続けました。ほんとうに疲れて疲れて、時に赤い尿がでるほどでした。

 

 

 

 

英治さんの妻、祐子さんは昭和27 年(1952 年) 11 月 27 日に南相馬市で生まれました。画家だった父の影響で物を作るのが好きだったので、母親の勧めで理容師の専門学校に通い、卒業後はいわき市平にある理髪店に住み込みで修業します。その後姉が看護師として働いていた、いわき市立総合磐城共立病院内の共立理容室に勤めます。そこで英治さんと出会い結婚。時に新婦 26 歳、新郎 27 歳でした。

 

義務教育を終えるとすぐに理容師の資格を取り、家族のために働き始めた英治さん。学ぶことに対する気持ちは強く、理容所の仕事を妻、祐子さんに支えてもらいながら定時制の高等学校に通い、卒業後は短期大学に進学。

 

昭和 59 年(1984 年)、 32 歳でいわき短期大学経済学部商経学科を卒業しました。

 

この年にロダン理容所を「理容美容ヘアーショップ・ロダン」に変更。

お父さんやお母さん、子どもたち。家族みんなが一緒に店に関われる、地域のコミュニティーサロンの役割も果たせるような理美容の垣根を越えた店、お客さまに喜んでいただける店を目指した名称変更でした。

 

理容椅子2台。資金がなく中古でしたが、友人たちの協力を得ながら店の内装や外装を改装。なにもかも手作りの開業でした。開設当初の来店客は1日に2~3人。店に面した道路の工事が2年も続き、お客さまが入店しづらかったこともあり、売り上げは伸び悩みます。

 

 

その時に英治さんが心に決めたこと。それは尊敬する人から言われた「来店される一人のお客さまを大切にすること。そのお客さまが 24 人のお客さまにつながっていくのだから」という言葉でした。師と仰ぐ人の言葉をヒントに、手作りのダイレクトメールを毎月送り、英治さんは徐々に店の売り上げを伸ばしていったのです。

 

 

仕事と学業との両立で働きずくめの毎日を送る英治さん。疲労がたまり、入院したこともありました。それでも勉強を続け、平成 2 年(1990 年)には全国理容中央学園大学科を卒業。

 

将来のために店を法人化し、有限会社クリエイティブ・スズエーを設立。多忙な毎日を過ごしながらも、常に半歩先を見て店の経営を考えていた英治さんは「これからは床屋だけじゃだめなんだ。美容のほうも勉強しないと」と妻を説得。双子の女の子を育てながら店を切り盛りする祐子さんに美容師の資格を取ることを勧めます。

 

「子育てをしながら仕事と学校。こりゃ大変だ!」それでも頑張って美容師の免許を取得する祐子さん。

「(大変だなと心で反発しても)私も真面目だから、お願いされると頑張っちゃうんですよね。

 

英治さんの『祐ちゃん、大丈夫だよ』の魔法の言葉にだまされるわけです。あははは」と笑いながら当時を思い出す祐子さん。

 

「父は、まあ経営者ですね。『こう決めたら、こうやろう』と、まず行動するタイプでした」と明夫さん。

 

 

創意工夫の人でもあった英治さんはマッサージスタッフを雇いマッサージルームを併設したり、文房具店を始めたりしたこともありました。

10 代で「理美容を通して社会に貢献していきたい」と志を立て開業した英治さんは有言実行の人でもありました。 25 歳で福島県理容生活衛生同業組合のいわき支部地区班長になり、 30 歳で支部青年部長を、その後いわき方部会方部長、平成18 年(2006 年)には同組合の県副理事となり理容業に貢献します。

 

 

「夫は頼まれると『ノー』と言えないんです。常に組合や地域の役職、いろんな役職をてんこ盛りにやっているから、もう自分ではアップアップですよね」(祐子さん)

 

「父は常にいろんな役職ごとを引き受ける『ミスターイエスマン』。人のために何かしらやっているから、お店は全部お母さん任せになるわけですよ」(明夫さん)

 

 

平成7年(1995 年)、店を鉄骨2階建て 15 坪に改築。彫刻家ロダンの名前にあわせて「貴方の髪を創造する」のロゴを入れた名刺を作成し、ヘアーショップ・ロダンは、社会状況や多様化するニーズに対処できるよう、スタッフ教育に力を入れます。

 

 

 

 

たとえば朝の「一人ひとこと会議」や月1回の営業会議を実施したり、毎月お客さまに送るダイレクトメールの内容も、スタッフに交代で内容を考えさせたりしました。当時の来客数は平日 17 人前後、土日は 25 ~ 35 人くらいあり、とにかく毎日がとても忙しく、昼食が 14 時~ 15 時に、夕食が 21 時~ 22 時くらいになることもたびたびでした。

 

駆け出しの頃、食べることにも苦労した英治さんは、従業員への心配りも忘れません。「みんな頑張っているんだから、ご飯出してやれ」が口癖でした。英治さんの気持ちを受け、祐子さんは店の仕事の合間に従業員の食事の支度もしたのでした。「店のことが忙しくて、子ども達の世話などはあまりできなかったわね。その代わり、心優しいお姑さん、ソメノさんが全面的に協力してくれて、本当に感謝の日々でした」と祐子さんは当時を振り返ります。

 

しかし忙しかったのはロダンだけではありません。まわりのお店もみな同じでした。

 

 

「週末になると、開店前には店の外にお客さまが並んでいたものよ」と祐子さんは言います。英治さんは平成 10 年(1998 年)に、いわき理容美容専門学校の理事に就任。翌々年に、同学校の副理事に就任します。時に世の中はカリスマ美容師ブーム。美容業界にスポットがあたった時代でした。 10 分 1000 円でカットのみ。シャンプー、ブロー、カラーリング、シェービングは一切やらないQBハウス1号店が、東京都神田にオープンしたのは平成8年(1996 年)のこと。QBハウスに台頭されるような、理美容業界への激安店の広がりは、バブル崩壊と共に、いわき市の理美容店にも影響を及ぼします。

 

 

危機感を抱いた英治さんは、平成 12 年(2000 年)の介護保険法施行に伴い、高齢化社会に向かい始める社会状況に合わせ、地域の理美容店仲間にも声をかけ訪問理容を取り入れます。ロダンスタッフ全員に2級ヘルパーの資格を取らせたのも、時代を見据えたからのこと。

 

 

平成 18 年(2006 年)、有限会社クリエイティブ・ロダンに社名を変更。定款に福祉サービス、保健医療サービス事業を入れます。福祉学部に進学した長男、明夫さんと訪問理美容について話し合ったのもこの頃でした。

 

やがて明夫さんが社会人となり、理容・美容の勉強を本格的に開始した同時期の平成 23 年(2011 年) 3 月 11 日に東日本大震災発災。いわき市は震度6弱を観測します。続く福島第一原子力発電所、第二原子力発電所の発災により、いわき市内に避難された方たちに向けて無料シャンプーを行いました。

 

 

 

 

 

当時、福島県理容組合の副理事だった英治さんが理美容学校などに声をかけ、社会福祉協議会などとも連携し、協力してくれる理容師や美容師と一緒になり、ロダン店舗や協力店、学校などの場所を借りたのです。いわき市に本社があるバス会社の協力により、ピストン輸送をしてもらったおかげで、状況を把握しながら避難所を回ることができました。シャンプーに必要な水も、水道局やガス会社の協力があったからこそできたことでした。そして同じ震災を経験した、関西の理容師組合の仲間から届いた励ましの手紙とたくさんの支援物資。これらを浜通りの同業者に配ることもやりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

障がい者の父親、それを支える母親、たくさんの兄弟の長男としての責任感から進んだ理容師の道は厳しく険しい道でした。

 

しかし寝る間も惜しんで働き、結婚後は妻の協力のもと、地域のために力をつくし、理美容業界のリーダーとなり、さまざまな分野で活動する人たちと協力しあいながらボランティア活動ができるまでになりました。

さらに英治さんは 10 年先まで事業計画を立てていました。その 1 つが「理美容ができる移動車両」を手に入れて、もっと多くの人たちに理美容サービスを提供することでした。

 

夢を叶えることなく英治さんは平成 29 年(2017 年)に、この世を去ります。行年 65 歳。葬儀には 1000 人以上の人が焼香に訪れ、交通整理のために警察官が出るほどでした。眠る英治さんと対面し男泣きをする人も。その姿にご家族は、改めて英治さんの生き方を見たような思いだったそうです。

 

 

 

第1回目 完

 

 

 

次回  第2回目 【10月3日更新予定】

『 長男:明夫さんの思い 。 突然の父の病。その最中で決めた明夫さんの覚悟とは?』